ブラック校則

今から45年前、僕はブラック校則に背いていた。

当時はブラック校則なんて言葉もなく、校則は子供達を守るためにある正当なもので、批判する父兄も殆どいなかった。

唯一、教育学部のマスターを出たエリート教師が、自分の将来を棒にして時折教育方針をチクっていたのを思い出す。校則や教育方針を批判することは、教頭への道を閉ざす自殺行為だったにも拘わらず。

中学校のとき、意見発表会というものがあって、僕はブラック校則と管理主義的な教育を批判し、その責任は校長にあると訴えた。

演説が終わって拍手喝采が来ると思っていたが、現実にはシーンとしらけて、数人がパラパラと拍手してくれただけだった。

唯一、将来を棒に振った教師から、「良かったぞ」と言われた。

翌日、父兄召喚となった。

曰く、

「校長先生を校長と呼び捨てするとは何事か。」

というずれた理由で停学処分寸前になった。

責任は校長にあるというのはずれてなかったと思う。

母はひた謝りしたらしい。翌日僕は職員室に何食わん顔で出入りし、何一つ先生に謝った記憶はないが、何故か停学にはならなかった。

当時、僕はガリ勉優等生で、試験成績も学年一桁台だったからだと思う。

ブラック校則とは、実にいろいろあるが、例えば、

①男女交際禁止。手を握っても駄目。キスはもってのほか。(思春期に無理な相談。自然な成長を悪としている。コンドームなしでセックスしては駄目というなら分かる。)

②髪染め禁止。茶毛禁止。たとえ地毛でも。(茶毛は不良の始まりらしい)

③パンツは白かブルー。ピンクや水玉禁止。(先生が身体検査したかったからか? コンドーム持ってた女子生徒が叱られたので、僕はそれを膨らませて職員室で飛ばして遊んだ。女子生徒を褒めてあげるべきだったのでは?)

④髪の毛は肩に届いてはならない。(所謂おかっぱ推奨。肩にちょっとでも届いていたら、ハサミで矯正的に切る先生も居た。長髪イコール色気?色気は学問の邪魔?)

⑤ピアス、ネックレス、指輪、マニュキア禁止。(共産主義のソビエト連邦や中華人民共和国でも禁止してないだに。)

⑥化粧禁止。口紅禁止。(色毛は不良の始まり。きれいにしたいのが何が悪い。白のダブダブソックス駄目だった。あれは何と言うんだっけ?)

⑦パーマ禁止。カールも駄目。但し天然パーマは良いが証明が必要。(理由は何?)

⑧登下校の買い食い禁止(部活に疲れて腹が減るのに。それだけが楽しみだったのに。)

⑨アルバイト禁止(勉強の邪魔になるから。お金のない家庭はどうする?)

⑩スカートの長さは膝下じゃなければ駄目(ほんとはミニスカが好きなくせに。)

パーマに関しては、高校の時に逆らう為にわざとパーマをかけた。日体大卒の先生は、

「お前には似合わないから止めとけ。」と言われた。

「それが理由かよ」と唖然とした(確かに似合ってなかったけど)。それ以降、その先生の言うことはすべて無視した。

もう書くだけ馬鹿げているが、こういう校則が45年後の今も残っていることが驚異だ。正々堂々と生徒手帳に書かれているものもあれば、単に暗黙のルールのときもある。

戦後の日本の教育制度は成功したと思う。貧しくても努力した人がより良い教育を受けられて成功できた。

でも時代が変わっても学校は変わらな過ぎた。

今や日本を駄目にしている元凶に感じる。

行かない方がマシなくらい。

自殺率は世界に自慢できる水準。若者の死因の第一位。

たとえ不合理でも、何が何でもルールに従うように仕向け、色気を封じ、個性も封じようとしている。

何故、何十年も変わらないのか。

生徒が画一的で金太郎飴なら管理はしやすい。

でも学校は管理するところじゃない。縛るんじゃなくて、可能性を拡げるところであるべきなのに。

そう言う自分も、息子が登校拒否になりかけた時、

「兎に角、何が何でも学校に行け。」と言った。

馬鹿なことをした。どうして、「こんな学校なんて行かなくてもいいよ」と言ってあげられなかったのか。

もし次の機会があったら、「学校行かずに何処か旅でもして来い」と言ってあげたい。

学校が如何に偏屈で狭い世界かを理解するために。

学校に行きたくない

「学校なんか出来れば行きたくない。」

「死ぬ程嫌だが、我慢して行っている。」

「行きたくても行けなくなった。」

「学校が全然楽しくない。行く意味が分からない。」

そう考えている生徒諸君! あなた達は正しい。

あんな腐った所に、死ぬ思いまでして行く価値はない。

親や周りは心配するだろうけど、行かないほうがマシなところだから行かなくて良い。

勉強が心配? 大丈夫、学校で習う勉強なんて、どうせ役に立たないから。

昔は学歴主義があったから、取り敢えず良い大学に行く価値があったが、今はもうそれも無い。

ただ、勉強は大切だ。学ぶことは沢山ある。学ぶ機会も幾らでもある。だから、勉強はしてね。

50年前、僕も学校嫌いだった。(成績は)優等生だったけど。

よく教師と喧嘩したものだ。当然、大抵の教師から嫌われた。

あれから半世紀が過ぎ、世の中物凄く変わった。変わったのに、学校だけが変わってない。50年も変わらないなんて、凄いとしか言いようがない。

学校は僕の知る限り、50年前から腐っていた。あんなところ、害はあってもメリットはない。

もちろん、学校に行くことによって人と人との繋がりはあって、そこから大切なものを学べるが、家庭と学校で過ごす時間が圧倒的に長いので、必然的にそうなっただけで、学校という機能のお陰じゃない。

学校に限らず、行きたくないところには行かなくてもいい。

それは、あなたの数少ない自由。

やりたくないことなんて止めてしまえ。

やりたいことだけやって生きてゆけば良いのだ。

大丈夫、それでも死なないから。

出生の秘密

これは僕にとっては秘密でも何でもないのだが、自分の父母にとっては大切な秘密だった。

僕には兄と姉が居るが、少し歳が離れている。姉は8歳年上で兄は5歳年上。姉も兄も、とても弟の面倒見が良かった。特に兄は、ハゼ釣りでもプラモデル作りでも、いつも一緒に遊んでくれた。メカニックやオーディオやアメリカンポップス、クラッシック音楽、それと弟を優しく守る兄貴心は兄から学んだ。

だから、兄と僕が腹違いの兄弟であることは、僕には何の意味もなかった。腹がどうであろうと、僕のお兄ちゃんは兄以外にはあり得なく、小学校の頃から、僕が偉くなってお金持ちになったら、絶対に兄ちゃんに1000万円か1億円をあげて恩返しをすると決めていた。それは遺憾にもまだ果たせてないが、まだ人生は終わってないので、それを果たせないまま終わるとは限らない。

母は、兄弟が腹違いであることをひた隠しにしていて、ある時味噌汁の具を切りながら、

「お姉さんとお兄さんのお母さんは、あんたのお母さんと違うとかなんとか誰かが言った?」

と振り向きもぜすに聞いてきたことがある。

「知ってるよ、母さん。姉ちゃんと兄ちゃんのお母さんは死んじゃったんでしょう?」

母の弟が酒に酔っ払った勢いで僕に話してくれたので僕は知っていた。

「誰がそんなことあんたに話したの? 誰? それ聞いてどう思った?」

「お母さん、僕のお母さんはお母さんだし、僕のお父さんはお父さんなんだから、僕にとっては兄ちゃんのお母さんのことなんか関係ないよ。」

味噌汁の具を切りながら、母が泣き崩れていたのを覚えている。

そんなどうでもいいことが、母には一生モノの秘密だったことの方が、僕には重く感じられた。

兄と姉の母、つまり父の前妻は、3人目の子供(次女)を身籠った時に、子宮がんであることが分かった。子供と子宮を全摘すれば命は助かるかも知れないと医者に言われたが、前妻は

「死んでもいいから、子供を残す。」と決めた。

丈夫な女の子を産み落としたが、病気で育てることは出来ず、子供に恵まれなかった前妻の姉夫婦に里子に出した。

産後、がんの手術を試みたが、腸間膜に無数の転移があって、そのまま腹を閉めただけで終わった。

里子に出された姉は、高校生になって始めてその事実を知り、その後数回僕の家を訪ねて来たことがあるが、

「私のお母さんは、私を育ててくてた今のお母さんだわ。」と言っていた。当たり前のことだと思った。

突然現れた僕の新しい姉は、凄い美人で見惚れるほどだった。その後、育ての親はアルツハイマー病でボケたが、姉は美容師として成功し、数件の美容院を営むようになった。

前妻を亡くした父は、盲腸から重度の腹膜炎になり、手足をベッド縛って痛くて暴れるのを押さえつけられて、無麻酔で緊急手術をした。猛烈に臭い膿が腹から溢れた。術後も化膿で何度か腹が割れた。

ドレインから溢れる臭い膿を毎日取り替えた看護婦が僕の母である。

第二の人生は、社会への貢献とか、世界を変えるとかいうような良くある成功者のビジョンとは異なり、単に自分の幸せの為に始めたものだが、僕を愛してくれた人達に恩返しが出来たらの幸いと思うこの頃である。もう一肌脱がなくては駄目だ。

ASCO2018

もう10年も20年も前の話だが、仕事柄、米国臨床腫瘍学会、通称ASCO(アスコ)の年次総会には、10回位行った。

お陰で、ロスアンゼルス、フィラデルフィア、サンフランシスコ、デンバー、ニューオーリンズ、シカゴ、サンディエゴと、多くの都市にも行けて、いい経験になった。

当時、長く続けた基礎研究の世界から臨床研究の世界に入って、臨床科学に戸惑いを持っていた僕に、ASCOは強い衝撃と感動を与えてくれた。

ASCOは、今や巨大で、とてつもなく影響力のある学会になった。

ASCOに行き始めた頃は、日本からの臨床研究は殆どリジュクトされるほど、米国と日本のレベルの差が大きかったが、その後国立がん研究センター等の素晴らしい研究結果がいくつかASCOで発表されるに至った。

僕の係わった研究も数回ASCOで発表された。

ASCOの何が凄いかといえば、臨床研究結果のパワーであって、例えば3万例の無作為二重盲実験試験で統計学的に有意差のある有無を言わせずの結果を発表され、発表当日からそのがんの標準的治療法が変わってしまうほどだった。ASCOの論文がそのまま治療ガイドラインや臨床医の教科書になるようなものだ。

新薬、新治療法が育つのは気が遠くなる程遅いように思えたが、一歩一歩着実に進歩して行って、10年も経てば、がらっと様相が変わってしまうだけの進歩がある。

毎年凄い結果が発表されるASCOだが、免疫療法関連で数報、前代未聞の驚愕すべき、勇気づけられる結果が発表されたようだ。

非常に専門的であって、今や素人になった僕がここで下手に解説して混乱を起こすのも嫌なので詳細は書かないけれど、いくつかの化学療法でも奏功しなかった末期がんでも、免疫療法で完全寛解が得られる場合があること、新しい免疫療法を使えば、化学療法より延命効果がある場合がある等の結果が出されたようだ(免疫療法と言う言葉は適切ではないかもしれない)。

一説によると、毎日数万個のがん細胞が生まれるが、ほぼ完璧に免疫機構がこれを排除して、がんと言う病気にならないようにしている。ところが、何億分の一位の確率で、それを回くぐることに成功する細胞がいて、それが臨床的がんになってしまうこがある。

多分僕の身体にも無数のがん細胞がいて、毎日免疫機構と格闘しているのだろう。

思えば、あの頃の僕は何かと闘っていた。

それなりに自分でもかっこいいかもなんて思う時もあった。

そして、負けた。

今もある意味闘っている。今度は組織もないし、人の判断で流されることもない。自分があるのみ。

農作業に明け暮れて、科学もへったくれも無い。世の中を変えてやると言う意気込みじゃなくて、自分の人生を有意義なものに変えたくて、一人闘っている。

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サラリーマンはもう飽きた。気がつけば人生の残りも僅か。ここはひとつ、窮屈な日本を抜け出し、活力あるのにどこかゆる~いタイを舞台に、自分らしい第二の人生に旅立つことを決めてしまった50代親父。

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