カンチャナブリ紀行:ヘル・ファイアー・パス
真珠湾攻撃から半年後の1942年半ば、日本軍はインド防衛を最終目標とするイギリスとビルマで戦っていた。ビルマ戦線への補給路が必要な日本軍は、タイのバンポンからビルマのタンビュザヤまでの400kmにも及ぶ鉄道を僅か2年弱で完成させた。
この鉄道建設のため、60,000人を超えるオーストラリア、イギリス、オランダ、アメリカ人の戦争捕虜と、250,000人もの現地アシア労働者を集め、重機なしの突貫工事を強要し、捕虜の20%にあたる12399人、おそらくは山岳民族が主体だった現地アジア労働者70,000~90,000人が死亡した。
死因は栄養失調と過酷な衛生環境がもたらしたマラリア、赤痢、コレラが多いが、日本軍による懲罰による死亡も多かった。
戦争捕虜が置かれた酷い状況を後世に残すため、最も過酷な工事現場跡にヘル・ファイアー・パス・メモリアル博物館がある。旧日本軍の非道ぶりと犠牲になった捕虜達の苦難が強調されているが、現地アジア労働者の苛酷さはそれ以上で、死亡者数すら正確な数字が残っていない。
カンチャナブリの主要観光スポットにもなってるヘルファイアー・パス・メモリアル博物館。大変よく整備されていて、大型バスも来る。ここを訪れたことがある読者も多いことだろう。
寄付金で運営されているので、入場料は取らない。
中に入って僕が日本人だと分かると、ボランティアの女学生が片言の英語と日本語で、日本語版のパンフレットをくれた。上の水色の記述は、そのパンフレットから抜粋したもの。加害者側の日本人ということでバツが悪かったが、女学生の笑顔で少しホッとした。
その敷地内にあったブッドレアに似た木に蝶がたくさん舞っていた。一つの木に数百匹のチョウチョ。
ヘルファイアーで無くなった人達の魂が舞っているかのようだった。
この辺りの道路にも異常に多くの蝶が飛び交い、それが車のフロントグラスに激突して死ぬ。道路には無数の蝶の死骸が落ちていた。ひと月前に訪れたペチャブリーもそうだったが、国立公園内には本当にたくさんの蝶がいる。どうしてこんなに蝶が多いのか、実に不思議。
博物館から見た外の景色。断崖絶壁になっていて、下にはクウェー・ノーイ川が作った平原が広がっている。
その谷に降りる遊歩道はよく整備されていた。博物館から400m程歩く。
ここが当時、鉄道があったところ。そこを鉄道跡に沿って歩く。この鉄道の日本語名は泰緬連接鉄道だが、英語圏ではDeath Railwayと呼ばれているらしい。
向こうに見えるのがヘルファイアー・パス。ヘルファイアーとは、夜を徹して行われた突貫工事のかがり火を地獄の送り火に見立て命名された。
いよいよヘルファイアー・パスの中心部に差し掛かる。
線路跡に大きな木が一本そびえ立っていた。
ヘルファイアー・パスを抜けたところに、記念碑がある。
ほとんどの観光客はここで引き返すが、僕たちはもう少し先まで行ってみることにした。
当時の枕木が残っている場所もあった。
記念碑から数百メートル奥に進んだところにビューポイントがあった。
そこから見える風景は実に素晴らしかった。
雨季も始まり、新緑の季節。こんなに雄大で美しい風景の中で、地獄の作業が進められていたなんて不思議な気がする。
ここで引き返して、絶壁を登って博物館に戻った。いい運動になった。
戦後、捕虜虐待の責任と、軍作戦のための鉄道建設に捕虜を使用したという戦争法規違反により、日本軍の泰緬鉄道および泰俘虜収容所の関係者多数が起訴され、約半数の40名弱が処刑された。
食料も物資も医薬品も不足する中、大本営からの命令でスピード第一主義の突貫工事をせざるを得なかった日本軍兵士もきっと辛い思いをしたことだろう。
しかし、これらの戦犯裁判は連合軍が受けた虐待致死についての裁判であり、最も悲惨な境遇に置かれ、最も多くの死者を出した現地アジア人労働者への虐待に対する裁判は、どこの国によっても行われていない。
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